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山洋電気の歩みと技術革新(1)

激動の時代を生き抜いた情熱と先見性

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History
歴史

山洋電気は冷却ファンやサーボシステム,ステッピングシステム,UPS,太陽光発電システム用パワーコンディショナなどの製造・販売で知られる電気機器メーカーです。当社は1927年(昭和2年),無線機用発電機の分野での成功を夢見て創業されましたが,当時はようやく真空管無線機が実用化されたばかりの時代であり,まさに昭和のベンチャーとして激動の時代を駆け抜けてきたのでした。 常に独自の道を歩み,パイオニアたらんとしてきた山洋電気の歴史を,コラムを通して紹介します。

人とは違うことをしたい-黎明期の無線の世界へ

「人のやらない専門領域で,しかも将来に発展性を秘めた分野」──山洋電気の創業者・山本秀雄は,早くから実業家を目指す中で,自分の仕事のビジョンをこのように描いていました。

1894年(明治27年),岩手県盛岡市で生まれた山本は,東北帝国大学の工学専門部電気科に進み,そこで「無線」の分野で事業を興す決心をします。きっかけは,英国の物理学者ジョン・フレミング氏に師事した経験を持つ八木秀次博士の講義でした。博士は無線の持つ大きな可能性について語り,その内容は山本青年の心を大きく刺激したのです。

しかし当時(1910年代),国産製品はまだ実用化されておらず,ほとんどを輸入に頼っている状況。黎明期の分野だったことも,パイオニア精神旺盛な山本を強くひきつけた理由と思われます。

33歳で独立-ゼロからの出発

大学卒業後の山本は,輸入機械のセールスエンジニア,製造工場のマネージャとして営業の経験を積みました。しかし自ら事業を興す目標は片時も忘れず,真空管による小型無線機の普及を予測し,その電源の試作実験を繰り返していました。

そして,第一次大戦終結後の不況や関東大震災による混乱を乗り越えながら,1927年(昭和2年),33歳の年に個人会社・山洋商会として独立。とはいえ資金は貯金や勤めていた会社の退職金などわずかしかなく,まさに「ゼロからの出発」でした。

ほどなく,日本で初めて真空管式無線機の実験に成功した津守英五郎氏の知遇を得ることで,夢だった無線の事業に乗り出すことに成功。経営は楽ではありませんでしたが,山本はエンジニアと営業マンの二足のわらじで会社を支えながら,社業の発展に邁進しました。

待望の自社工場「日本の水準を抜け」

メーカーへの移行を夢見ながら資金を貯めていた山洋商会は,1932年(昭和7年)にようやく自社工場を手に入れました。その翌年には,「船舶安全法」の施行により,総トン数100トン以上の船舶には無線機の設置が義務化され,山本が見通したとおり真空管方式による小型無線機の需要が大きく広がることに。

無線通信用電源本格的な生産体制を持った山洋商会は,漁業用無線の特需というべき状況下で小型無線機用の直流高圧電源を契約各社に納入し,そのほかにも多種多様な発電機の製造をおこない,また一方で新製品の試作を日夜続けました。 開発する製品はトップレベルの品質,性能でなければ満足しなかった山本は,エンジニアとして陣頭指揮を取り,海外トップクラスの製品を研究しながら,常に「日本の水準を抜け」「時流の一歩先を行け」と従業員を激励していたといいます。

軍需用品分野への参入-株式会社山洋商会へ

当時の日本は,満州事変後の軍備拡張の中で,軍用機の国産化に乗り出していました。山本は,航空機に積み込まれる小型無線機の電源に目を付け,中島飛行機製作所(現・富士重工業)に部品の納入を始め,軍需用品分野と関わりを持つことになりました。

優秀な技術力が評価され軍の指定工場に認定された山洋商会は,1936年(昭和11年),個人商店では問題があったため会社の形態を整えるために「株式会社山洋商会」として発足。当時,資本金50万円,従業員数は70名ほどでした。

こうして「無線通信機の電源では誰にも負けない」という熱い思いと「人のやらない専門領域を狙う」という山本の理念が,現在の山洋電気の礎となったのです。