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山洋電気の歩みと技術革新(2)

戦時体制下,「軍需工場化」と増産要求への苦悩

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History
歴史

山洋電気は,冷却ファンやサーボシステム,ステッピングシステム,UPS,太陽光発電システム用パワーコンディショナなどの製造・販売で知られる電気機器メーカーです。1927年(昭和2年),黎明期の無線通信機分野におけるパイオニアとして創業した当社は,創業者・山本秀雄の「人のやらない新しい専門領域を」「汎用機器はやらない」との厳とした方針のもと,順調に社業を拡大してきました。しかし,戦争の暗雲が立ちこめる中で,優秀な技術力を軍当局から評価され,以後,否応なしに戦時体制下へと組み込まれてくことになるのです。

しのびよる戦争の影と軍需用品の増産要求

時局は緊迫しつつありました。日本の産業界が急速に軍需色を濃くする中,無線通信機業界にも軍からの受注増とともに生産力の増強が要求されるようになり,当社もその例外ではありませんでした。

1937年(昭和12年)には,間接ではありましたが海軍艦政本部より慣性起動装置や昇圧器,電磁開閉器,起動電動機,さらに航空機エンジン用のスターターモータなどの電装品を受注しました。生産増強のために当社の従業員は70人から150人へ倍増し,工場も増築。その後,艦艇用無線通信機の電源(コンバータ)の受注もあり,海軍の指定工場に認定されました。

同年,日中戦争の始まりとともに「臨時資金調整法」が公布され,軍需最優先のもと民需向け設備資金はすべて制限されてしまいます。当社においても,これまで主力製品であった漁業用無線通信機の電源などは工場の片隅に追いやられてしまいました。

「腕の山洋…」戦車の無線通信機用電源で技術力に高い評価

「国家総動員法」制定,第二次世界大戦勃発と,戦争の暗雲が世界中を覆う中,当社の軍需受注も増加の一途をたどりました。その反面,資材や部品の調達はしだいに困難になり,従業員の出征による労働力不足とあわせ,生産効率に深刻な影響をもたらすようになります。軍の要求する生産量を確保するには,毎月1割くらい増員しなければ間に合わないという状態だったのです。

その折,陸軍造兵廠より機甲部隊の戦車に搭載する無線通信機用電源の試作が命じられました。生産効率がますます悪化していたので,技術員がこの試作に注力するのは厳しい状況でしたが,「無線通信機分野の電源では他社の追従を許すな」という創業者・山本の指揮のもと,連日夜を徹して試作開発は続けられました。

結果,完成した製品は好評価を得て大量生産を命じられることになりました。これを伝え聞いた陸軍省航空本部の幹部は「腕の山洋…」と賞賛し,当社の技術の優秀さが世に知られる契機となりました。当時,「国家総動員法」にもとづき無線通信機業界に結成されていた「無線九社会」にも,主力電源メーカーとして参加していました。

太平洋戦争突入─軍からの受注急増による「軍需工場化」

戦時体制下のこの時期,当社の生産力は正常な状態とはいえませんでした。軍からの受注の急増により,1941年(昭和16年)11月期の売上高は一挙に32%も上昇し,従業員は1,100人にまで増加。しかし,生産効率の低下は深刻で,常に受注残がかさんでいるという状況でした。

そして1941年(昭和16年)12月8日,日本はついに太平洋戦争に突入します。当社はこの時すでに,陸軍の戦車や海軍の艦艇に搭載される無線通信機の電源を製造する軍需工場となっていました。翌年には陸軍航空本部より強力な増産命令が下され,長野県上田市に新工場を建設することになりました。航空機のスターターモータや無線通信機用電源などが大量に発注されることになります。当時の営業報告書では,そのようすを「軍ヨリ膨大ナル増産命令アリ…」と記しています。

「山洋電気株式会社」に社名変更─長野・群馬に工場新設

一層の増産命令を受けた当社は1942年(昭和17年)4月,軍からの申し入れをきっかけに社名を「山洋電気株式会社」と変更して資本金を100万円に増資しました。商事部門を切り離して独立(現在の山洋工業株式会社)させるとともに,原価計算システムの導入など財務体質の改善を図りました。

上田北工場の竣工式同時に,陸軍航空本部の増産命令に対応するため本社工場を拡張し,一方で長野県や群馬県の製糸工場を買収して「上田南工場」,「前橋工場」として稼働。さらに,軍当局の斡旋で長野県上田市の北方に工場用地を確保し,新工場の建設を計画します。

しかし物資や労力の不足から,工場建設の多くは自前でおこなうこととなりました。山林の買収から始まり,資材の伐採,製材所の建設,製材,さらに入手困難だった釘などを闇ルートで確保するところまでおよびました。こうした苦労の末,1944年(昭和19年)2月,6600uの「上田北工場」竣工にこぎ着けたのでした。