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山洋電気の歩みと技術革新(3)

軍需会社から平和産業へ―戦後混乱期を生き抜いた「技術への信頼」

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History
歴史

山洋電気は,冷却ファンやサーボシステム,ステッピングシステム,UPS,太陽光発電システム用パワーコンディショナなどの製造・販売で知られる電気機器メーカーです。1927年(昭和2年),黎明期の無線通信機分野におけるパイオニアとして創業した当社は,順調に社業を拡大してきましたが,戦争の暗雲が立ち込める中,軍から高い技術力を認められたことで,過酷な増産要求に追われました。そして迎えた終戦。混乱の中,当社は数多くの困難を乗り越え,専門メーカーとして新たなスタートを切ることとなります。

「軍需会社」へと正式指定―空襲による本社焼失と終戦

戦局はますます激しくなり,1943年(昭和18年)7月にはサイパン島の日本軍が全滅。以後,米軍の爆撃機B29が東京を襲うようになりました。銃後の生産体制にはますます厳しく拍車がかけられ,1944年(昭和19年)12月25日,当社は正式に軍需会社として指定されました。

当社はすでに無線通信機用電源メーカーのトップとして総需要数の3分の1を生産しており,社員数は約5,000名にまでふくれ上がっていました。戦況が悪化し,空襲で多数の企業が被害を受けたことで生産命令はさらに厳しさを増し,一方で資材不足のため生産状況は急速に悪化していきました。

1945年(昭和20年)4月13日未明,本社工場は降り注ぐ焼夷弾によって火災に包まれました。憲兵隊は社長の山本 秀雄(当時)と工務部長の茂木 連(当時)を召喚して,武器保全のための努力が充分でなかったと責め立てましたが,山本は死にもの狂いで消火に当たった社員を褒め,火災は不可抗力だったという態度を貫きました。当社は軍需用の無線通信機用電源の主力メーカーであったため,被害を受けながらも瞬時の生産停滞も許されず,地下工場の建設も命令されました。しかし,完成する前に運命の8月15日,終戦の日を迎えました。 敗戦というショックに山本をはじめ全社員が呆然としました。

敗戦後の再スタートと「平和産業」への転換

敗戦後の1945年(昭和20年)9月,当社は約4,500名の人員整理をおこなうとともに,退職者全員に平均3ヵ月分の退職金を支給しました。当時としては異例の措置でしたが,混乱した世の中で各人が生きる道を探さなければならない状況下での決断でした。戦後の社会では「平和産業への転換」だけが生き延びる道であり,51歳を迎えていた山本は「ゼロになっても必ず再出発させてみせる」と宣言し,残った社員を励ましました。

本社工場1945年(昭和20年)12月初旬に,当社は豊島区大塚(当時は同区巣鴨)の土地と建物を入手。戦後の歩みはこの本社ビルから始まることとなりました。しかし,無線通信機用電源メーカーとしての本来の生産は休止状態が続いていました。

軍需補償打ち切りと「特別経理会社」適用で創業以来の苦境に

政府は1946年(昭和21年)8月に軍需補償の打ち切りと同時に「戦時補償特別措置法」を公布し,当社は1,864万円(軍に納入した製品の代金,前受金,戦災補償金など)を,戦時補償特別税として国へ返却しなければならなくなりました。しかし,こうした資金は退職金の支給,本社ビルの購入などによってすでに大部分が消えていました。そのため「特別経理会社」の適用を受けることとなり,創業以来最悪の苦境に直面したのでした。

その後,特別管理人の指示に従って資本金の9割を切り捨て,銀行借り入れも解消し,続いて各工場を売却し社員の3割が退職しました。こうして企業整備が滞りなく実行されたことで,1948年(昭和23年)11月末日,特別経理会社の指定を解除されました。そして,資本金を従前どおりの400万円に戻して新発足することとなったのです。

計画造船への参入―「専門メーカー」としての基礎固め

当社の戦後の再出発は漁業用船舶の無線通信機の分野でした。政府は1947年(昭和22年)から1948年(23年)にかけて第1次から第4次までの造船計画を実行し,合わせて91隻,17万8000総トンの貨物船が建造されました。当社は,これらの船舶に装備されている直流高圧の無線通信機用電源を受注。また,軍需用の水中音響探査機の技術を応用した魚群探知機用の電源(コンバータ)も製作し,水産業界からおおいに歓迎されました。

そして,1948年(昭和23年)から1949年(24年)にかけて,日本郵船,川崎汽船,三菱海運,飯野海運,日本水産,日魯漁業などの各社から,遠洋航海船舶用として高周波発電機を使用する無線通信機用変換電源の注文を受けることになりました。当社は敗戦直後より,大型船舶用の無線通信機用電源を本命と考えており,焼け跡の半地下の部屋で高周波発電機(500サイクル)による変換電源を試作していました。苦境の中でおこなった努力が報われたのです。その後は高性能の定速定電圧電動発電機を日本無線,安立電気,東芝,東洋通信機などに納入して好評を得ました。

船舶用定速定電圧電動発電機1949年(昭和24年),わが国の海運業は自由化されることとなり,第5次計画造船により貨物船36隻,タンカー6隻が建造されました。当社はそのうち半数近くの無線通信機用電源を受注。これは戦前から変換電源に取り組んできた技術に対する信頼と,大型船舶用無線通信機の電源に対する開発努力,漁業会社への納入実績が評価されたものでした。当時はドッジデフレ(超均衡予算)のため中小企業の倒産が多発しましたが,当社はこうして安定受注を得ることで,専門メーカーとしての基礎を固めることができたのです。