戦後復興の最中,当社が企業としての確定的な歩みを始めようとしていたころ,わが国の通信事業は大きな変革期にさしかかっていました。1949年(昭和24年),政府は逓信省を電気通信省と郵政省に分離。監督行政的な色彩が強かった逓信省を分割し,民間企業の性格に近い経営組織へ移行させ,郵便事業と電信電話の復旧事業を意欲的に進めようとしたのでした。
当時,加入電話の申し込み数が回線架設数を大きく上回り,市外電話では通話を申し込んでから何時間も待つのが当たり前という状況でした。そのため電気通信省は,市外回線の増設と長距離電話の整備を急ぎました。
当社が初めて関わった電気通信省関係の仕事は,大阪発動機(後のダイハツ工業)が同省から受注した交流発電機(エンジン・ジェネレータ)の,交流発電機部分でした。続いて,電話局の市外電話用バッテリに充電するための裸線搬送電信用電動発電機を直接受注。これらの発電装置は高く評価され,当社は電気通信省の指定メーカーとして登録されることになりました。
20kVA交流発電機当社は戦前から無線通信機用の「変換電源」を主力としてきましたが,電気通信省との関わりを契機として,「バックアップ用電源装置」の分野でも広く活躍する可能性が開かれました。また,電気通信省の指定メーカーとなったことは,単に受注面での環境を向上させただけではありません。当時,同省の電気通信研究所は,わが国の通信事業に関連したエンジニアのリーダー的な存在であり,その先端技術の恩恵を受けられるようになったのです。
1952年(昭和27年)8月1日,電気通信省の事業は電信電話公社に移行。新発足した電電公社はさっそく「第一次電信・電話拡充五ヵ年計画」に着手し,電話局の新設,長距離ケーブル幹線,マイクロ波幹線の建設を次々に進めました。
国産技術の蓄積を目指しながらも,外国の先端技術を導入し,それに追いつくことも目標としていた電電公社は,東京‐仙台‐札幌間のマイクロ波伝送において国産技術の採用を決定。大手の無線通信機会社数社が開発要請を受けて,「スリーエンジン方式*」による無停電電源装置の試作に取り組みました。当社はダイハツ工業に提携を申し入れ,共同で開発に当たることに。しかし,文献もあまりなく,時価1,000万円もする製品の自費試作であるため,担当者が社長の山本(当時)に「やりますか」と尋ねたところ,「やらなきゃだめだ。できれば注文がくるんだからやろうじゃないか」と返答され,背筋が寒くなったといいます。
特に苦労したのはクラッチで,油圧クラッチではロスが多いため,いろいろ検討した末に電磁クラッチを用いることにしました。こうした努力の結果,1年後にようやく初の国産のスリーエンジン無停電電源装置が完成し,当社製品は高い評価を得ました。この全国マイクロ波通信網は,電話の全国自動即時通話に貢献しただけでなく,全国のテレビ中継放送も可能にしたのでした。
このころ,国鉄や電力各社も相次いでスリーエンジン方式の無停電電源装置を採用するなかで,当社製品は各所で歓迎され,多数の納入実績を残しました。
*スリーエンジン方式無停電電源装置:商用電源で回転するインダクションモータと同軸上に交流発電機を持つ。通常はこれを通して良質な電力を供給する。停電時にはフライホイールにより,そのまま回転を続け,その慣性でエンジンを始動し無瞬断で電力を供給する。
これより少し前の1950年(昭和25年)8月,「警察予備隊令」が公布され,実質的に今日の自衛隊が発足。はじめは,装備のほとんどがアメリカからの援助でしたが,1952年(昭和27年)に保安隊へ移行し,さらに1954年(昭和29年)に防衛庁が発足すると,防衛電子機器の国産化が活発におこなわれるようになりました。
手回し発電機当社は1953年(昭和28年),当時の保安隊より手回し発電機を受注しました。試作コンクールに参加した際,山本は「1位でなくては意味がない」と技術者を激励。そして完成した無線通信機(GRC-9)用の手回し発電機(手動ジェネレータ)は見事1位を獲得しました。
その後,この手回し発電機は海難時のライフボートに緊急無線通信機の電源として装備することが法令化され,その大半を当社が製作することになりました。また東南アジア各国にも輸出されたのでした。
当社の売上高は,1951年(昭和26年)3月期の3,270万円から,1954年(昭和29年)9月には1億1,742万円にまで急上昇。回転機電源の主力メーカーとしての地位を確立したのでした。
この時代は情報化時代の黎明期でした。わが国の電子工業は戦前から通信分野が主力でしたが,昭和20年代後半から30年代はじめにかけてより大きな分野へ浸透を始めます。
1951年(昭和26年)にはラジオの民間放送が開始され,1953年(昭和28年)には大量の放送局が開局。また前年の1952年(昭和27年)には,NHKと民放2社がテレビ放送を開始し,以後続々と開局が続きました。ラジオ,テレビの時代は電電公社のマイクロ波通信網の建設に先導されて黎明期を迎えたのでした。
こうした動きが通信機各社に好影響を与えたことは,いうまでもありません。
公開日: 2017-01-04 00:00