1973年(昭和48年)10月,第四次中東戦争の勃発とともに石油ショックが到来。急成長を続けていた日本経済は一転して谷底に突き落とされ,当社も戦後最大の試練を受けることになりました。これ以降,産業界全体がそれまでの積極的な経営から“減量経営”へと180度の転換を迫られ,各企業はエネルギーの節約や業務の省力化などに乗り出しました。
当社では,課長以上の役付手当や管理職の基本給カットをはじめ,パート従業員の希望退職募集,一時帰休を実施。また遊休資産・設備を処分し,社宅群も売却しました。こうした減量施策と同時に,各部門の業務編成を変更し,営業体制の質的強化を図りました。
合理化と省電力化によって競争力を回復した電子工業界は,1976年(昭和51年)ころからようやく輸出を中心に実績を向上させ,当社の業績も低迷状態を脱しました。続く昭和50年代の発展は,こうした血のにじむような努力によって切り拓かれたものだったのです。
薄型冷却ファン「サンエース」は,石油ショックに続く不況の長期化で需要が増えず,市場競争の激化から利益率も低下していました。このため当社は「『サンエース』をもう一度生き返らせよう」と徹底した省力化とコストダウンに取り組みました。
その際に,あくまで性能と品質本位のポリシーを貫いたことが好結果をもたらし,電子工業界の石油ショックからの立ち直りとともに需要を増加させました。しかし市場競争は激しく,コストダウンの努力を怠るとすぐに競争力が低下。昭和40年代初期のような高い利益率はすでに過去の話でした。
一方の主力である「ステッピングモータ」は,主要クライアントのIBM社が米国内の不況によって在庫調整に入ったために,量産体制を強化していた当社は大きな打撃を受けました。
そのような折,コンピュータのプリンタをメカ駆動からステッピングモータ駆動に切り替えようとしていた日本電気から引き合いがあり,国産コンピュータの周辺機器に初めて「ステッピングモータ」が採用されました。これによって同社のプリンタは国内外で強い競争力を持つようになり,他のメーカーも相次いで「ステッピングモータ」の採用に踏み切りました。
わが国のOA化の波はコンピュータの普及にともない,昭和50年代初期に大きなうねりとなって拡がりました。1973年(昭和48年)にオフィスコンピュータが発売され,1977年(昭和52年)には高価でしたが民生用パソコンが初めて市場に登場。さらに翌1978年(昭和53年)には日本語ワードプロセッサが発売され,OAの基本をなす機器が出そろいました。
こうした流れのなかで,山洋電気の技術開発は常に時代に先行していました。1974年(昭和49年)にNC工作機のテープリーダ用ステッピングモータを開発したのに続き,1975年(昭和50年)にはフロッピーディスク用ステッピングモータ,1976年(昭和51年)にはファクシミリ用ステッピングモータと,次々と需要を先取りした開発をおこない,OA機器の普及に重要な役割を演ずることになりました。
また,OA市場の拡大に向けて塩田工場と築地工場の2つの工場を新築したことで,「サンエース」と「ステッピングモータ」の生産能力が飛躍的に向上。当社の売り上げは1977年(昭和52年)が前年比14.2%増,翌年は同44.2%増と上昇し,この勢いは1980年(昭和55年)ころまで続きました。
1978年(昭和53年)には第二次石油ショックが到来しましたが,すでに省力化,省エネで成果を挙げていたわが国の電子工業界が大きなダメージを受けることはなく,むしろ二度にわたる石油ショックによる“省力化ニーズ”は,コンピュータの普及に拍車をかける要因ともなりました。
「サンエース」は,コストダウンの成果から市場競争力を回復し,OAブームにより生産台数を伸ばしていましたが,OA機器の進歩を背景とする技術的転換期を迎えていました。
それまで冷却ファンは交流を電源としていましたが,OA機器の小型化により,電子回路に影響を及ぼすノイズの出ない「ブラシレスのDC(直流)ファン」への要望が高まってきたのです。ACファンのようにサイクル数の違いによって回転数が異なることがなく,消費電力もACファンの半分以下で済むという利点がありました。
当社は1982年(昭和57年)10月にブラシレスDCファンの商品化に成功。発売後ほどなく「IBM5550」パソコン用に出荷がはじまりました。ブラシレスDCファンの登場により冷却ファン市場は拡大し,ACファンも1981年(昭和56年)末の累計生産台数500万台から1985年(昭和60年)6月には1,000万台へと躍進していきました。
公開日: 2017-01-12 00:00